50代でセミリタイアしたキャリコンのはなし

50代でセミリタイアし自由な働き方を選びました

キャリコン日誌2 「指導的なのは良くないと言うけれど」

私は前職、IT企業でマネジメントをしていました。ライン職であったり、システム開発プロジェクトのマネージャだったり。

マネジメントをやる上で重要な素養にリーダシップがあります。長たるもの、ビジョンを示し、プロセスを明らかにし、メンバを鼓舞しつつ、自ら率先して達成に向けた行動をとる、というわけです。

そのとおり行動できていたかどうかはさておき、自分の中にその精神が刷り込まれている事は、確かに実感できます。

 

一方、キャリコンをする場合、合言葉は「傾聴、受容・共感」です。「答えはその人の中にある」を信じ、自身への問いかけを促し、自分の進む道を見つける「支援」をするのが大原則です。

 

この2つのスタンスのはざまで、悩んでしまう事がたびたびあります。まぁ、これはキャリコンとしての私が未熟であるがゆえと自覚はしてるのですが、「理想と現実とのはざまとも言えるんじゃないの?」とか、思ったりもしちゃいます。

 

キャリコンをしてると、よく「何から始めていいか分からないんです」とか、「先生なら、どっちがいいと思いますか?」という発言に出会います。

中には、その本人でないと本当にわからない「知らんがな」と感じてしまう事もあるのですが、殆どは自分なりの意見を持ててしまう事柄です。マネージャとしての私なら、迷わず「こうしてみてはどうかな」とアドバイスするところです。その際の相手の溜飲が下がったような表情を見るのが快感でもあります。

 

しかし、キャリコンでは「答えはその人の中にある」なのです。実際、人は自分が考え、納得した事でないと、動こうとはしません。意見したくなるのを堪えて、「状況を整理してみましょうか」とか、「優先順位をつけてみましょうか」と考えてもらうためのボールを投げます。

それそのものは、セオリーであり、私自身も納得感あるのですが、たまに見せる相手の不満そうな顔に、自分の取り組み姿勢が揺らぐ事があります。「それが分からないから、相談してるのに。あなた、プロなんじゃないの!」という心の声が聞こえそうになります。

 

思うに、日本のカウンセリングに関する文化にその原因の一端があるような気がします。

欧米に比べ、お金を払って人に相談する、という文化が、日本ではまだ根付いていないですよね。お金を払うのはサービスを受けるとき、という概念がまだまだ根強いと思います。相談を受けるのもサービスではあるのですが、考えるプロセスそのものをサービスとは受け取らず、考えてもらった結果を提供するのがサービスという概念が相当残っているのではないか、と思います。

 

カウンセリングを受ける前提となるリテラシー、つまり、人はどのように考えて生きていくべきなのか、という教育も必要になっていくのかもしれませんね。